既に知られている通りですが、まさに、ストレス社会の解決などといった、このような問題にこそ、刀との鍛錬が役に立つのです。一見、危険なものに見えるかなというものも、自分自身を磨く道具として見立て、鍛錬を実行していくことで、ストレスに耐えられるようになる他、そのストレスをどのようにして逃がすのか?というところにも注意が向くようになるのではないでしょうか?結局のところ、このような刀を用いたすべての鍛錬と考察は、人生でむかえることになる様々な勝負所で土台になり得るものだ、という意識を持っておくと良いでしょう。かつて、たくさんの武士たちが街を闊歩していた江戸時代においては武士というものは支配階級の代表的な存在であり、自分自身の理性に基づいた規則正しい生活をする人としても、人々の注目を集めており、その正当性は歴史が証明している通りです。ただ、当時の武士道というものは、とにかく規律が厳しく、それを守って一生を終えていくことそのものにも価値が置かれていたため、むしろ規律にまもられた他力本願的な生き方をしてしまった武士の話なども目にしたことがありますし、これは、現代にも通じる部分があると言えそうです。武士道というもの、つまり、現代で言えば、居合道というものに自分自身を置き換えて、結果としてどのように還元できるのか?ということを考えなければ、厳しい規律や、厳しい鍛錬を積む意味は全くと言っていいほどないと言えるのではないでしょうか。それでも、武士道や居合道における規律を守るということは、自分自身の人生にしっかりと太い一本の柱を立てるようなものであり、それに沿って生きてきたという自信を生み出すことにも繋がります。