改めて、日本刀を用いた居合道の話に戻しますが、そもそも日本刀というものはひとたびものに触れればそのものを深く切り、誤って用いてしまえば、自分自身だけでなく多くの人を傷つけてしまう可能性すらあるものです。実際インターネットやテレビのニュースでは日本刀を用いた痛ましい事件が放送されることもありますし、誤った使い方をされているケースがあることは認めざるをえません。その危険度というものは包丁やナイフなどの刃渡りが短いものとは比べものになりません。そして、このような危険さばかりに目を取られて、今では刀を持つこと自体が非常に難しくなってはいますが、原点に帰って考えると、武道の中における刀というのは、単に相手に戦いを挑み相手を傷つけ打ち勝つためのものでは全くなく、自分自身にとって何が足りていないのかということを刀を用いた鍛錬を通して理解していく過程の方が重要なものなのです。結果よりも、どういう過程で鍛錬をつむのかという部分のほうが重要であるということは理解しておく必要があるとも言えそうな気がします。つまり、刀というのは鋭利さなどの特徴から、その用途に注意が集まりがちですが、本質というのは、その刀を持っている人を磨くための道具の一つに過ぎないとも言うことができるのです。刀を持ち、危険と隣り合わせの中で鍛錬を積んでいくことは、どのようにして刀を制し、自分を制することができるのか、という理性の気持ちを強く実感することができるというふうにも聞いたことがあります。現代社会は、とにかくストレスが多く電車や仕事など、様々な場所で小さなストレスを多く積み重ねていき、それがなんらかの形となって爆発してしまう人も多いでしょう。